ブログの更新をする時間がないぐらい忙しくて(というのは言い訳ですが)、例の九州学会出張の帰路で、蔵 研也『リバタリアン宣言』(朝日新書、2007年)を読みました。
この本は、社会のあらゆる事象において、「国がきちんとやるべきだ」という言論に対して、なぜ自らがやらないのか、そもそもそれは国がやるべき事なのかよく考えてみよ、という言説を撃った論争誘発的な書物です。にもかかわらず、新書という形態なので、主張内容がわかりやすく述べられている好書だと思います。
リバタリアンというのは、新自由主義(古典的自由主義)者のことです。18世紀に登場した自由主義(古典的自由主義)はそもそもこのリバタリアン的要素を持っていました。それが20世紀に入り、経済的自由にもとづく社会・経済的格差を是正しなければならないという修正自由主義(現代的自由主義)が主張されるようになりました。それに対してもういちど古典的な自由主義の主張内容に戻ろうという主張が、リバタリアンと呼ばれる人たちにより、近年活発に行われています。
彼らは、本書にもあるように、もともと「自由」とは国家による強制のない状態のことを言うので、「国がきちんとやるべきだ」という論調は、そもそも自由主義に対立する言説であるというのです。本書も、そもそも国家が本当にやるべきことなのか、国家の役割は何なのかについて考えてみなければならないと言い、国家のやるべきことは、実は、それほど多くないはずだ、と結論しています。
わたしもこの論調、スカッとしていてよいと思うのですが、いまさら劇的に戻ることはできないとも考えています。
たとえば、著者は「さて、現在の福祉国家のおこなっているような慈善的な活動は、そもそも強制力を使ってまで、嫌がる人から税金を徴収してなすべきことなのでしょうか。私にはそうは思えません。(原文改行)社会にホームレスが多すぎると考えるなら、そう思う人が自らの責任と資源の拠出において、ホームレスの救済を行うべきです。」(104~105頁)と言います。そしてこれを<国がきちんとやるべきだ>と考えている人びとに対して、(国が税金でやるべきだ、と考えている人に対して)こう言います。
「それでは自分の収入のうち、いったいどれだけをホームレス対策に支払う気があるのか自らに問うてみてください。有り体にいうならば、誰か金持ちの『他人』の金で政策を実行するべきだという高邁な思想を当然視する前に、自分の金をどれだけ支払う覚悟があるのかを反省してほしいのです。」(105頁)
わたし、この意見に大筋では賛成なのですが、もう自分の所得をこのように自由に処分できなくなっています。その原因が国家の税制です。
わたしは、わたしの親の介護やわたしの子どもの養育・教育について、自分のお金と責任で行いたいと考えています。でも、すでに国家が、わたしの知らない人の介護や他人の子の教育のために、わたしの所得から税金をたんまりととっていっています。残された僅かな金銭は、わたしの生存の為に費やされ、毎月カツカツの生活です。もう、わたしの判断で、親や子どもにお金をかけることはできなくさせられています。そう、わたしは国家に隷属してしまっているのです。
「国がきちんとやるべきだ」と考えている多くの人も、決して「高邁な思想」のためにそう言っているのではなく、もう自分たちにはどうすることもできなくらい、国家によって金銭的資源が枯渇させられてしまっているのではないでしょうか。結局、著者の言っていることと結論的な着地点は同じように感じますが、現状、今日明日の生活がかかっている人びとに対して、われわれにどうしろ、と著者は言うのでしょうか。
みなさんはどのように考えますか。リバタリアンの主張を理解するためには、以下の2冊がお勧めです。
左はデイヴィッド・ボワツ『リバータリアニズム入門:現代アメリカの<民衆の保守思想>』(副島隆彦訳、洋泉社、1998年)です。アメリカにおける「最小国家論」の考え方が要領よくまとめられています。
右は蔵さんの著書の中でも紹介されていた、言わずと知れた、ロバート・ノージック『アカーキー・国家・ユートピア:国家の正当性とその限界』(嶋津 格訳、木鐸社、1994年)です。この本を読まずして、リバタリアニズムを語るな、ですね。
【マイ・ライブラリー/昨日の配架】
娘の絵本を買うついでに、麻生多聞『平和主義の倫理性:憲法9条解釈における倫理的契機の復権』(日本評論社、2007年);藤井俊夫『学校と法』(成文堂、2007年);シェルドン・S・ウォリン『アメリカ憲法の呪縛』(千葉 眞他訳、みすず書房、2006年)を購入しました。
それと岩波書店に、岩波講座「憲法」第3巻『ネーションと市民』(第3回配本)を送ってもらいました。
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